はじめに
明治維新の立役者である西郷隆盛と、日本の資本主義の礎を築いた渋沢栄一。この二人が交わした興国安民法を巡る対話は、東洋思想の根幹にある「仁義」と「誠実さ」を体現するものです。本記事では、西郷が相馬藩の要請を受けて動いた背景や、渋沢とのやり取りを、儒教や論語の観点から深く掘り下げていきます。
1. 西郷隆盛、情に動く
1871年(明治4年)、相馬藩が存続を望んだ興国安民法。しかし、大蔵省では廃止の議論が進んでいました。相馬藩の人々は、西郷隆盛に助けを求め、西郷はこれを受け入れました。
西郷は、井上馨のもとではなく、一官僚に過ぎなかった渋沢栄一の自宅を訪ね、法の存続を願い出ました。この行動は、彼の「情の人」としての側面を強く示しています。西郷は、二宮尊徳の教えを完全に理解していたわけではありませんでしたが、相馬藩のために動いたのです。
2. 「知らない」と言える誠実さ
西郷が渋沢に「この法の存続を支援してほしい」と頼んだ際、渋沢は「あなたは興国安民法の内容をご存知ですか?」と問いかけました。すると西郷は、率直に「それはまったく知らない」と答えました。
ここに、西郷の誠実な人柄が表れています。論語では、「知るを知るとなし、知らざるを知らずとなす、是れ知るなり」と説かれています。すなわち、真の知恵とは、知っていることと知らないことを明確に認識することにあります。
渋沢はこの西郷の態度に驚きながらも、その正直さを評価しました。彼は後に、「明治維新の豪傑のなかで、誰よりも知らないことは知らないと素直に言え、ほんの少しも虚飾のなかった人物が西郷さんだ」と語り、西郷隆盛のことを心から尊敬していたのです。
3. 国家の未来を見据える渋沢栄一
渋沢は、西郷が相馬藩のために奔走していることを理解しつつも、「相馬藩だけが良くなることが目的ではなく、日本全体の財政改革を考えるべきではないか」と指摘しました。
興国安民法が相馬藩には有益だったとしても、それが全国的に適用できるかは別の問題です。渋沢は、国家の財政全体を考慮し、「一藩のために奔走するだけでなく、国全体の安定を考えなければならない」と諭しました。
この姿勢は、論語にある「義を見てせざるは勇無きなり」に通じます。自らの正義に従い、大局を見据えた行動を取ることこそ、国家を支える者の責務であるという考え方です。
黙って渋沢の持論を聞いていた西郷は、最後に「今日は頼みにきただけなのに、叱られてしまった」とどこか愛きょうのある言葉を残して帰ったといいます。
4. 興国安民法の廃止とその影響
西郷の尽力にもかかわらず、興国安民法は最終的に廃止されました。後日、西郷から渋沢へ「お前がやってくれないからだ」と不満の手紙が届いたといいます。しかし、渋沢自身は西郷の人柄や器量に強く惹かれており、この時のやりとりを少し自慢げに周囲に語っていたそうです。
また、渋沢との対話を通じて、西郷は単に感情に動かされるだけでなく、国家の財政全体を見直す必要性を認識したと考えられます。この対話は、政策決定において理性と情のバランスが重要であることを示しています。
5. まとめ
西郷隆盛と渋沢栄一の対話には、東洋思想の多くの要素が込められています。
- 西郷の情の深さ:相馬藩の人々の願いを受け、行動に移した。
- 誠実な態度:「知らない」と率直に言える姿勢が、儒教の教えに通じる。
- 渋沢の大局観:国家全体の利益を考え、一藩の利益だけに留まらない視点を持っていた。
- 興国安民法の廃止:地方財政のあり方について新たな議論を呼んだ。
このように、二人の対話は、単なる政策議論を超え、日本の未来を見据えた哲学的な対話でもありました。現代においても、リーダーに求められるのは、情と誠実さ、そして大局観を兼ね備えた視点であることを示唆しています。
6. 注意事項
本記事の内容は、歴史的資料をもとに構成されており、学術的な研究や一次資料の解釈に基づくものではありません。歴史的事実の正確性には注意を払っていますが、新たな研究や解釈によって異なる見解が示される可能性があります。
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